7月2日 アトリエ・乾電池とカフェフォリオにて

 下北沢で劇団東京乾電池の『牛山ホテル』を観てからカフェフォリオに行った。信じられないぐらいの暑さ。まだ7月も始まったばかりだというのに。今週一週間、体調を崩さずにやっていけるかちょっと不安になる。

 東京乾電池の公演は相変わらず面白く、アトリエ・乾電池も相変わらず心地の良い場所だった。人の家に遊びに行くような気軽さがある。演劇が生活の中に根付いているような趣。

 公演終了後、演出が(分かる人は一発で分かるでしょう。気になる方は調べてみてください。)アトリエを後にする観客たちに挨拶をしていた。一緒に観に行った私の母も、彼の前を通りすがった際に「ありがとうございました」と声をかけられていた。けれど、私が前を通りすがった際はどうか。視線を合わせず何も言わず、ぺこっと軽く会釈をされただけだった。ん〜、悔しい〜!めちゃめちゃに、悔しいです。だから決めた。次回公演終了後に絶対に話しかけます。十二人の怒れる男を観てから東京乾電池のファンで、毎公演観に行っているし、次回公演も楽しみにしていると!2023年下半期の目標の一つです。

 そのまま芝居の感想をあーだこーだ言いながらカフェフォリオへ。今回はガトーショコラとアイスコーヒーをいただきました。ずっしりと濃厚なガトーショコラとバニラアイスの相性は抜群。すぐに平らげてしまった。けれどコーヒーを飲もうとした際に、思いっきりこぼしてしまった。下ろしたてのチャイナ風シャツ、よりによって白いやつ。今年の夏、たくさん着るつもりでいたというのに、こんなことってある!?うわーん!!

 そんなこんなありましたが、会計の際にマスターが私の顔を覚えていてくれたことが判明し、結局まあいいっかあと思ったのでした。あ、シミは家帰って速攻取りました。完璧に取れたわけではなさそうだけど…。

いつまで続くの?

 『アシスタント』を観た。

 主人公であるジェーンが不条理に抗う声を奪われていく様がリアルだった。フィクションだけれどジェーンの身に起こったことを誇張せず淡々と描いている点がドキュメンタリーのようだった。

 

このプロジェクトでは、実際に多くの映画業界で働く女性たちに話を聞きました。もしそれをドキュメンタリーとして撮影していたら、彼女たちがただ「嫌な思いをした」と愚痴っているようにしか見えなかったかもしれません。でも俳優を起用することで、ボスの問題行動や、同僚からの性差別的な扱いが、ジェーンにどんな影響を与え、どんな気持ちになるのかを言外に見せることができる。彼女の旅により共感してもらえるようになるんです。

 

と監督は雑誌のインタビューで語っているけど、彼女の目論みは見事に的中していると思う。俳優たちによって現場が再現される事で、観る側の記憶も蘇る。蘇った記憶と画面の中で起こっていることを照らし合わせ、自身の身に起こったことの意味を考えてしまう。私自身身に覚えのあるシーンが多々あり、終始心臓がバクバクしていた。

 再現の仕方も徹底している。

 

今回は日常的な性差別など、無視されうるような瞬間にも目を向けたいと思って。フィクションならクローズアップや音響を使って、些細な瞬間を強調することができます。小さなディティールをあえて大きなスケールで見せることで、問題の深さを伝えたかったんです。

 

という監督の言葉の通り、細かなところまで演出が行き届いていた。その中でも最も印象的なのが、社内相談窓口のウィルコックとのシーンだ。

一連のやり取りの後、ウィルコックがジェーンの言葉を書き留めたメモ用紙をくしゃくしゃと丸める音が強調されているように感じた。それは言葉にはできないジェーンの心理状態を物語っているかのようだった。このような本当に些細なことが積もりに積もることで、人の心は蝕まれていく。静かに心を蝕まれてしまったジェーンには、何気ない音が暴力的に感じられてしまったのではないかと思う。

 

 とても人ごととは思えなかった。これは私自身の物語であり、働く中で違和感を抱いたことのある全ての人の物語だ。一体いつまでこんなことが続くのだろう。気が遠くなる。

 

6月11日 昨日観た映画

レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(アキ・カウリスマキ/1989年)

レニングラードカウボーイズのパンクなビジュアルと終始何も起こらない内容とのギャップが面白かった。ポルカっぽい音楽は古臭いってダメ出しされてたけど、あれはあれで新鮮だと思うし、むしろ下手なロックをやるより売れたんじゃないかと思う。

『別れる決心』(パク・チャヌク/2022年)

言葉においても身体の距離においても、互いに想い合い触れたいと思いながらも触れられないもどかしさが官能的だった。ソレがヘジュンの「私は完全に崩壊しました」という言葉を「愛してる」と受け取ったのは圧巻。どの台詞も美しくミステリアスだったけど、「私はあなたの未解決事件になりたい」という台詞はいささか安っぽい感じがした。あと、様々な演出を詰め込んだ映像は全然好みじゃなかった。

羅生門』(黒澤明/1950年)

緊張感溢れるキレの良い殺陣シーンや、京マチ子の美しい動作に思わず目を見張るシーンなどが次から次へと繰り出され、中弛みすることなく話が進んでいった印象。だけど途中でガッツリ寝てしまいました。面白い面白くない関わらず夜家で映画を観ると絶対寝てしまう。困ったものです。

6月7日 横浜駅の有隣堂

 横浜駅を経由して帰ることになったので有隣堂に寄った。

 入ったところにある村上春樹の作品を集めた棚を眺めていると、レイモンド・カーヴァーの作品集がいくつもあるではないですか!(村上春樹が訳してるから)どれも気になる…。村上春樹はあんまり好きじゃないけど、以前読んだ村上春樹訳のレイモンド・カーヴァーの作品はとても良くてずっと気になっていたので、身近な書店に彼の作品が置いてあるのは嬉しい。でもそうこうしているうちになくなってしまうんだろうなあ。欲しいと思った時に買うべきなんだろうけど、今はだめです。なぜなら図書館で借りた本が3冊もあるから…。うう。

 横浜駅有隣堂で好きなのは、ハヤカワ文庫から岩波文庫にかけての棚です。高校生の頃からよくこの辺をうろついている。うろついているわりには岩波文庫の本とか全然買ったことないけど。でもなんかあの黄色に赤や緑のラインが入った背表紙を見て回るのが好きなんです。知らない本がたくさん並んでいるのを見ると、冒険しているような気分になる。この世にはまだまだ読んだことがない本がたくさんあり、知らない世界が無限に広がっていると思うと、わくわくせずにはいられない。

 高校生の頃の自分も同じことを感じていたので、本棚を眺めているとその頃の自分に遭遇する。けれどあの時感じていたことを今もそのまま感じることができるわけではない。そのことを、過去の自分は許してくれないと思う。心と体の中にあるナイーブな部分が削り取られ、自分を形作るものを愛せなくなってしまうのではないかと恐れていた私は、社会に適応できるように変わってゆくこと禁じていた。でも私は、社会に適応できるように変わってしまった。失敗をしてもあまり落ち込まなくなった。職場ではどんな人にも感じの良い話し方ができるし、常に笑顔でいられる。そんな私を過去の私が本棚の影からものすごい形相で睨んできているような気がする。

 ごめんね、と思う。なんとか社会に適応できてしまった私は、毎日会社と家を往復する日々を送っていて、それはあなたにとっては退屈なものでしかないだろうから。だけど愛することは忘れていないよ、と伝えたい。私を形作るものを愛することは忘れてはいないよ。むしろ自信を持って好きだと言えるようになったぐらい。

 高校生の頃は読んだことのなかったハヤカワ文庫の本を読むようになりました。アゴタ・クリストフカズオ・イシグロが好きです。今は華氏451度を読みたいと思っている。だけどこれも図書館で借りた本があることを思い出し諦めたのでした。

 

 

思い出すのはいつも夏で

 『aftersun/アフターサン』を観た。

 記憶の断片(ビデオテープ)とソフィの想像で語られる物語は詩的だった。

 観る前から父と娘の最後の夏休みの話であろうことは分かっていたけど、最後のカルムの表情でそれが決定的になってしまったようで、切なさと寂しさで胸がいっぱいになった。あの時のあなたの気持ちはわからなかったけど、もし少しでも知ることができていたら…。人生とはそういうことの繰り返しだなとつくづく思う。

 夏は嫌いだけど、思い出の中で一番甘く心地よいのは夏、ことに夏休みだ。脳裏に鮮明に焼き付いている出来事が起こったのが夏休みだった、というのもあるけど、様々な映画で観た夏休みのワンシーンが自分の記憶として存在しているからなんだと思う。何もしないでただ寝そべっていたプールサイド、大人になりたくて背伸びした昼下がり、大切な人の温もりを感じながら眺めた海。アフターサンも、きっと甘く、けれど思い出すと切ない夏休みの記憶の一部になるでしょう。

言葉を得て、生きていく

 久々に八本脚の蝶を読み返していたら、言葉で遠くまで行ってみたくなった。

 ということで久々に?文章を書いているわけです。はてなブログは前にもやっていたけど、スマホを変えた際にログインIDが分からなくなったので作り直しました。

 三日坊主のプロなので、多分そんなに更新はしないでしょう。あと、文章を書くのがとても遅いから。言葉とあんまり仲良しではないので、その日の出来事、自分の思考や感情をぴたりと言い表せる言葉がなかなか出てこないのです。なのでここで文章をつらつら書くことは、私が言葉と仲良しになるための試みとも言えましょう。

 今多和田葉子の聖女伝説を読んでいるのですが、その中にこんな一節がありました。

女の子は言葉の力を借りて自分の身を守らなければならないので大変です。でも、その分、自由もあります。

 言葉を知ることは、世界と私の距離を近づけてくれるでしょう。そして、世界を明確に捉えることができるようになれば、そこでの身の施し方や戦い方が分かるようになるのでしょう。

 私がこの世界で強かに生きていくためには、言葉を紡いでゆくしかないのです。